はしがき

元三沢地区 発祥からのあゆみ

昭和21年12月 平成12年3月

 国破れても山河ありとは云へ、敗戦国の屈辱と混乱、其の極に達する時、昭和21年12月、国政により買収緊急指令が下され、当村にも県より浅野係官が買収担当者として来村。強引と思われる力で、烏渕村全域の開拓適地を買収され、その一部は増支に、元三沢地区も其の折り買収され、早々に復員軍人または海外からの引き揚げ者あるいは近隣地区の二、三男も加わり、同士25名、此の地区に古くから住む人、同士25名の内に持込加入、計25軒、元三沢開拓者として発足。買収された土地全域に分散、戸々別々に土地を分ける事せず、まずは食糧増産に着手する。後で思うに、県の方針で楽な様に感じるが、それが間違っていて後で苦しむことになる。
 此の度の指令にて買収された土地は、日本全土で四国全土より大きいとの話を県の係の人より聞き、政府としても国を揚げての大事業と思います。開拓当初は機械力も無く、鍬一丁と体力で毎日開拓に精を出す。思い出すに、まだまだ未開の地故、奥山に達せざる細道が二本あるのみ、また、自然が多く、四季折々、小鳥も沢山見受けられ、春先なぞ、葦切鳥の鳴き声で目が醒める事しばしば。夜ともなると深山を思わせる梟の鳴き声を聞く事度々、未開の地故、まだまだ文明から遠く、電灯は無く、話し合う集会所とても無く、以来、初代の役員から今日に至るまで、より良き日を夢に進むのみ、入植五十余年、当初からの方々も年齢的、其の他病や事故などもあり、一人去り、また、一人と寂しくなりつつある現在、何かを語らう人と思いつき、書き残さんとす。

発起人   山田定雄  武藤為雄  相模 清

 

始めに

元三沢地区に入り一番初めの家、原田伊予吉(八十六歳)さん宅に伺い、様々なことを知ることができました。
 昭和九年の水害で、三沢橋が流されたこと、そして昭和10年の大水害の様子、同じく昭和10年の水害で三沢川も荒され、それを修復するために内務省で治水用の堰堤工事をすることになりました。
 これは原田伊予吉さんが昭和13年に家を構えた時でもあり、堰堤工事の始めから終わる迄、詳細にわたって記憶しておりました。

 治水用の堰堤は三沢橋の下に1ヶ所と100メートル上に1ヶ所、さらに60メートル上の場所に1ヶ所、いずれも見える処が1メートルですが、水深下の見えぬ処が深く仕上がっています。また、一番上の堰堤は、高い処で4メートル、水の流れる処は3メートルくらいに見えますが、深い処から仕上げてあり、標高450メートルの記入と、竣工式は昭和14年11月の記入もあります。この時、道路も原田伊予吉さんの家の前より、昔の古い石積みの上にコンクリートで勾配をつけ乍ら、堰堤の上まで低い処で1メートル、高い処は2メートルに仕上がっているとのことです。

 開拓開放前の話です。
当時の村長、原田元吉氏から測量を頼まれました。これは元三沢地区にどのくらいの田畑が作れるか調べる目的でした。この測量に原田伊予吉さん、塚越朝記さん、又、芳ちゃん(武藤芳松氏)も甚さんも毎日の様に歩かされて、大変苦労されたようです。当時、元三沢開拓地に入植希望者は37名いたということです。

 原田伊予吉さんに開拓開放前に三沢地区に住んでいた人々の様子をお伺いしましたら、それは俺より中原の中沢文吾さんの方が良く知っているから行く様にと云われました。
 何日か過ぎた頃、梨子林のゲートボール場で中沢文吾さん(九十歳・現在故人)とお会いすることができ、開拓が始まる前の人々の様子を聞くことができました。

 

開拓前元三沢地区に住んでいた人々

 元三沢地区で一番古くから住んでいた人は猪毛の原田トリさん宅で、昔から代々と云う程、現在の地に住んでいました。お墓を見ても判るように古いお墓が十基あり、新たに息子さんが建立された墓に祖父母、実父母の墓もあり、現在も4、5人暮らしです。

 持込入植で次の人は三沢の住谷松二郎さん宅で、明治の中頃からこの場所に移り住んでおり入植はしませんでした。現在は三人暮しです。
 次に唐堀と云う処に武藤芳松さんが住んでいて、大正の中頃から現在の地に移り住んでいます。6名暮らしで入植はしませんでした。
 それから、少々小高い所に岡本七平さん宅があり、炭焼きなどが業(なにわい)で、4、5人暮らしで開拓と同時に入植し、猪毛の現在地に移り住んでいます。

 以上の人々は、近い六班から入っていた様子で、行政関係、その他の行事などは、六班と同じでした。
 次に、梨子林に池田竹雄さん宅があり、開拓が始まる2、3年前に地所を買い、現在の地に住んでいました。

 北沢大介さんは、昔、此の地に住んでいたことが有りました。北海道から此の非常時に申訳ないと、建具屋の仕事も辞めて、大地主の市川安雄さんにお願いして、現在の地に開拓が始まる前、1、2年前頃より移り住んできました。

 次に山田定次郎さんは、横浜より現在地を買い入れて、移り住んでいましたが、横浜の方へ行ったりしていて全耕地は貸してありました。 反面、復員した私(山田定雄)は、持込入植開放前、1、2年から耕地無き地主で、耕地の取得に苦労をしました。

 次、榛葉富平さんは、開放前1、2年前より移り住み、新たに開拓者として入植し、現在に至っています。これら四軒の人々は、隣の五班の行事など一切お世話になっていました。

*注  開拓希望者で元三沢地区に以前から住んでいた者は、以前、所有していた土地をいったん国に買い上げてもらい、改めて入植した経緯があります。

 

開拓の始まり

 昭和22年3月頃より、開拓の仕事が本格的に動き出します。
 当時、元三沢地区は碓氷郡のため、農政事務所は安中にあり、これらの事務的な仕事や、また、村開拓者に対する仕事に一方ならぬご苦労を頂きました。この頃の話として、塚越朝記さんが申すに、「当初、開拓申込者は37名おりましたが、地元増支に15ヘクタール取られたため、最終的選考され、25名が元三沢地区の開拓者として決まった」という様子を聞かされたことがありました。

 平成の今日、当時を振り返り誠に残念に思うことは、あまりに急なことで、当時としては仕方がなかったかも知れないが、開拓予定地ならどこでも開墾ということが、後で、それが元で家までも移動させられたり、せっかく開拓した地所も他の人に行ってしまったりと、今日にして思えば、馬鹿馬鹿しい話ですが、その頃としては不思議にも思える程、世の中が混乱していました。

 私たちは云われるままに、空いているところに作物を作ることに専念しました。鍬一丁のみで機械力もなく大変な仕事でしたが、皆、若く元気でもあり、一歩一歩開拓は進んでいったのです。

 この頃の同志、丸山元吉さんが作られた歌詞を紹介致します。

   木の芽 萌え出て さあ おいで

        春が来た   桃の花盛り

  三沢は良い処  好いた同志の

       さあさ おいでよ新世帯

            仲よく 暮らそうよ


開拓の頃の風景

野鳥類について

 開拓始めの頃は、野鳥類が多く見受けられました。

また、11月の猟の解禁と共に、何処から来たか沢山の鉄砲射ち(ハンター)が来て、戸を開けて見渡せば、必ず2、3人の鉄砲射ちが目に付く程で、一日中、朝から夕日が落ちるまで、ドカンドカンと鉄砲の音が響きます。その音に身の危険を感じ、「子供は外に出すな!」が合言葉の様でしたが、5、6年の内に鳥類も大変少なくなりました。
このような開拓の始めの頃の話は、今となっては本当か?と思わぬ人もいることと思います。平成の今日では、時期には鉄砲射ちは2、3人見受けますが、ドカン一発の音は7日に1回ぐらいで、あとは誠に静かな元三沢になりました。

 開拓も日毎に進み、畑も大分できた頃、思わぬ鳥害に遭いました。モロコシを蒔けば烏が喰うし、大豆を蒔けば鳩に喰われ、小豆が実る頃には雉が葉の陰にひそんで喰うため、気がつく頃には大体食われ、誠に計算外のことです。また大豆の芽の出る頃は、兎が出て来て端から毎日毎日少しずつ喰い荒され、思いもよらぬ敵を知りました。

 また、昭和の終わり頃より、一寸、出始めたと思ったイノシシが、2、3年内に増えて、集団で作物を喰い荒す様になりました。一夜にして、馬鈴薯を喰われたり、実りの秋、取り入れ前の稲を喰われたり、被害に遭う農家が倍増しました。害敵の用心のため、トタンを畑に張ったり、できるだけ移植に変えたり、用心のための苦労が続きます。平成に入るや、猪の出る場所は、全耕地トタン張りでイノシシよけの防護策を張り、役場、農協でも心配して補助して頂くありさまです。

 

電灯導入について

 開拓開放前より役場農政事務所等の提出書類など、次々出る補助事業への申請などを一手に引き受けて開拓事業を進めて頂いた塚越朝記さんや四組の人たちは、現在、住谷新平さんが構えている場所に家がありました。

 塚越朝記さんは、元は烏渕村出身者で、戦争中は沖縄で飛行隊の尉官殿だったとか、帰国後、この開拓に入り、私たちの指導者でした。「農地の整備の次は、必要な電灯を何が何でも頑張りますから、皆様も共に頑張る様に」と云われた事もあり、元村長カネトさんにお願いして電柱になる大木三十六本をご寄付頂き、電線もカネトさんの知人が持っていて、当時は資材が有れば実行に移れることになり、皆一ふりで切り出したり、不足と思わる資材を入手したりと、昭和24年早春から電灯導入の作業が始まりました。

 下平甚次郎宅を職人の宿泊所に4、5人の職人も入り、私たちは全員穴掘りで協力し、昭和24年4月3日は、一日も早かれと願った電灯が元三沢に導入された記念すべき日です。

 

加工場建設について

 同じ頃、加工場の建設が始まり、全員で柱一本ずつ持って来ることとなり、不足分は買い入れました。
権田から大工さんが一人来て、北沢大助さんも加わり、その他の器用な人は手伝いに協力して加工場の建設も威勢よく始まりました。
地をならす人、台石を川から運ぶ人、機械を据える場所にコンクリートの流し込み作業など、みんなが手分けして一生懸命頑張り、4日間で上棟、その後2、3日で仕上がりました。その後何日か過ぎた頃、前橋の丸山鉄工所より加工部分一式が出来あがり、機械も入り、4月中旬から運転が始まりました。


 入口に太く大きな字で、元三沢加工場と西村繁三さんに書いて頂きました。
当時、川浦に水車を使った作業所は有りましたが、それより動力は強く、従って仕上げも速く、他の部落から沢山の荷が来て、連日大盛況です。それから、約15年間運用しました。
また、この加工所は元三沢には集会所がないため、集会所としても長い間利用していましたが、昭和28年頃より個人用精米機カンリューが普及され、荷も少なくなり昭和39年末にて閉鎖となりました。加工場も売却して現在は更地となり整理ずみです。

 

補助事業道路について

 農地開放後、2、3年が過ぎた頃、現在の上道が開拓道路として補助金が出ることとなりました。元三沢部落の一番上の丸山政四郎さんから少し上の併用林道を基点として九尺道路ができることになり、事務所は渡辺松五郎さん宅に置きました。委員長は渡辺松五郎さんで、原田良太郎さん、岡本七平さんが役員に加わり全員で作業が始まりました。

 終点は山田の畑の終り迄、約2キロ200メートルぐらい、其の頃の日当は130円ぐらいで一生懸命仕事をすれば日当になる様に計算が出来ていて、皆で頑張り、約1ヶ月前後の日数で仕上りました。

それから更に一年後に、下平甚次郎宅前の併用林道の高い所を取り低い所へ持って行き、道路の勾配を良くする仕事で指揮は森林組合でした。荷車やそりで凹凸を無くす仕事で、下平さんの前を1メートル位下に仕上げました。昔、川が流れた跡か、砂利が出てきてそれを敷砂利に利用して約25日かかりました。砂利を利用したこともあり、日当は200円でした。

 

村の人口について

 昭和21年、烏渕村と倉田村の人口は、計7000余名でした。
戦後の時期は山の仕事も沢山あり、倉渕で暮すには鎌一丁、背負子一つでも暮せると云われた頃でした。昭和32年頃に人口が千人減り、村も復活しつつも人口の流出も目立つ。昭和60年頃はさらに千人減、現在は下げ止まっている様です。

 

物価について

 昭和21年から5ヶ年間、高崎までの往復バス代が6円、闇米が一升40円、確かに昔のひとの申す一日「日当」米三升の時代は有ったかと思います。今現在、腕の良い職人さんは、米一俵とか?

 

別れについて

 塚越朝記さんは元パイロットで、出身地は烏渕村で知人も多く村の事情なども大変明るく、事務的なことは特に上手でした。県の役人が「この書類は誰が書かれたのですか?」と聞かれたこともありました。開拓初代の組合長でもあり、私たちの良き指導者でもありました。あまり多忙なため、家の仕事ができず、3年の任期のうち任期2年の時、日航KKからの誘いもあり、開拓で残るか岐路に立っていました。そこで組合長の代行を榛葉寅平さんにお願いして、対外的事項について国や県からの書類の整備や折衝については元三沢の代表としてご尽力されました。

 開拓5年目に組合長が西村繁三さんに代わりし頃、友人の勧めもあり、日航KKに務めることになりました。一切を奥様の親、西村さんに託し、東京に行かれることになり、驚く程早く当時住んでいた家も売って、引っ越しの手続きも一切済まし、昭和26年末には日航KKの方へ移られました。その後何年か過ぎて、浜松で教官をしている噂をお聞きしました。

 

事故について

 合併前は碓氷郡安中農政事務所の指導を受けていて、事務所からの依頼もあり、碓氷郡開拓者支部連の事務整理のため、朝記さん、原田良太郎さん、西村繁三さんが出張され、当時は乗物が不便なため、権田発6時のバスに乗らねばならず、冬なぞは早いうちから暗くなるぐらい行き帰りが大変な時にその事故は起きました。

 まだ当時は木炭バスで、坂道になれば下ろされ後を押したりして、時間的にも確実な事は云えません。その日は遅くなり、権田から歩いて帰る途中、道は暗くて間違ったとの様子でした。
三沢橋の手前40メートルくらいの曲がり角で、手すりなどもない場所で落下してしまい大怪我を負いました。それが元で数ヶ月後、帰らぬ人になってしまい誠に残念に思います。

 西村さんは非常に多才な方で、農業技術師であり高校教師でもあり元陸軍中尉で台湾に在た時は市会議員でもあり、一子相伝の矛木術の巻物も持っていました。
私たちにとてもとても良き指導者でしたが誠に残念でした。
 朝記さんの後、息子さんも上の学校へ行くので上京され、奥様一人になり暫らくの後、朝記さんのほうへ行かれ、家も畑も其のままで現在に至っています。 先に行かれた西村旦さんは自衛隊の幹部とかの話です。今、書いている小史に手落ちがあればご指導を願いたいものです。

 過日、思い出を持たれた人に廻した折り、相模清さんから感想を頂きました。
元三沢開拓の出発に際し、電気導入や土地の割り当てなど、国や県を相手に各書類の整備や要望の対話が誠に短い間に上手に歩む事ができたのは、塚越朝記さんと西村繁三さんが在たればこそでした。

 

ラ・ラ物資について

 ララ物資とは、昭和22〜23年頃と思われるが、アメリカより日本中の開拓者に古着が送られてきました。元三沢開拓にも上着・下着・オーバー・その他いろいろが配分されました。色は派手であったが、当時としては本当に助かったと思う。

 

地所測量について

 昭和25年春、県より小町虎雄氏と吉井さんが外郭内郭測量に来られ、相模始次宅に宿泊して外郭が一週間の予定で始まりました。その手伝いに毎日二名が出役。測量の予定日数を決めてあるのか、夜中までも頑張って主に計算をすることがが多いようで大変な苦労されました。その頃はもちろん計算機もありませんでした。

 数ヶ月の後、地図ができて個人別に割り当てる時、空いている処はどこでも開拓すれば自分の権利ということが大変な間違いであることとなり、集会、集会、又、集会で、やっと現在の地図が出来上がり、個人別に昭和26年7月吉日付で配られました。

 其の折、今の一組は家が集中していたため、飛び耕地が多くなってしまうことから、話し合いで住谷正男さんに家を移動していただくことになり、全員で手伝い、現在地に移動してなんとか収まりました。

 

給食費の支払いに苦労

 昭和30年前後は特に子どもの数が小学生だけでも45〜6名くらいいたと思います。現金収入がなくて給食費が支払えず、代わりに麦や芋、その他の農作物を納めた家もありました。この頃の現状でありました。

 

塚越朝記氏跡地利用者について

 昭和28年に申込者の選考があり、開拓組合長の塚越朝記さんが東京に行かれた跡地について、住谷新平さんが選ばれ、昭和29年春、入植しました。

富芸について

 開拓が始まってから7年が過ぎた頃、安中農政事務所の指導員佐藤吉郎氏が申すに、「県にフィルムが沢山あり、元三沢は碓氷郡のため使用料は不用」とのこと。川浦小学校を借用し、組合長下平甚次郎さん其の他の全員が手伝い、準備から清掃、受付などをこなし、近衛十四郎、主富素浪人罷り通るほか、二、三本の映写会を行いました。
当時はテレビなどないため、沢山の人が見物に来て無事終了。村の有志がお祝いとして包んでくださり、最終計算利益は6500円余り。当時の日当に換算すると約40人の手間代と思う。

昭和28年、29年の冷害について

 開拓事業も次々進み、田畑も拡大して生産も年々増大する。この頃の生産品は、大豆、小豆、大麦、小麦、米などで、出荷される大麦や小麦で150俵近くまで上り、米は少なく20俵近くまで上り、喰える物中心の生産でした。

 しかし、来年は来年こそはと夢を見た折り、思いもよらぬ冷害に見舞われ、それが2年も続き、根底から打砕かれた悲惨な姿に変り、村人の生産意欲も半減し、生活のために日取りに行く人を仕方なく思う。

 昭和30年頃より、今まで取り扱いのなかった青果物の取り扱いを農協が始めたことで、野菜に切り替える人も多くなり、麦を作ると野菜の生産が落ちるため、麦を作る人は年々少なくなりました。また、相変わらずになりつつある米や野菜に変わり、養蚕が活発になり始めの頃だったと思います。

上州の名物男について

 昭和27、28年頃だと思います。
上州の名物男十人衆の発表が上毛新聞で企画され、元三沢地区から2名の名物男が出場した。
一人は、力持ちの相模丈二郎さん。新聞では、確か10人力と書いてありました。小話として、当時は三沢商店の前に出荷米が五俵積んであり、農協の集荷を開いている時の話の様です。
出荷者が「丈二郎さん、この米持てたら全部やるよ。」それを聞いた丈二郎さん。「本当ならためしてみるか」と、背負子に三俵付、両手に一俵ずつ持って十軒くらい歩いてしまい、まさかと思っていた荷主も大変困り、間もなく来る農協に出荷せねばならずお許しを願い、酒一升で話が付いたとか。
後でそんな酒一升のお話を丈二郎さんから聞かされたこともありました。

 次は、土屋竹雄さん。通常、熊竹。自身も俺は熊竹だと申していたぐらいで倉渕村でも知らぬ人もなく、ある日、ボヤ(火事)が起き、消防署に連絡したもののまだ新しい開墾地なもので元三沢では地名が解らず、「急な事故、熊竹知ってるか?」と言ったら消防も分かったとか。毎年の様に熊を射ち、築き上げた有名な人です。

 

   恐ろしい話

 昭和30年頃の事です。住谷代十さんも丸山虎吉さんも元気盛んな頃です。三沢入りの林の中で狸が捕れ、熊竹さんと鍋料理で一杯やりながら、酒の力も加わり、意気旺盛になり決まったことです。

 普通は熊が射てた場合、一度山を下り、熊を引出す人を頼み、再度山に行き家まで運ぶのですが、このときはまだ熊は射っておらず、熊のすみかを発見しただけのことでした。
長年撃っていても失敗もなかったので、多分、大丈夫だろうと竹さんの過信から出たことと思います。

 三人揃って出発し、霧積山の深い深い山奥に行きました。そこは落ちたら一気に100メートルは落ちると思われる険しい谷の八合目の熊穴の入口でした。熊竹さんは何時でも一発射てるよう鉄砲の準備もでき、何時ものとおり連れて行った熊取り専門の犬、二頭を穴に送り込み、熊が出て来た処を一発射つつもりで鉄砲を構えました。

小時、熊が穴から出て来たので熊の頭に砲を付け、一発ドカン。一時、気を失った熊は倒れ、「それ手前に落すな!」との声と共に二人が熊の足を片方ずつ持った折、熊が生気を吹き返し、逆さになったまま、「ウオー、ウオー」!

「そら手前ら!放せば殺されるぞ!持て」速一発ドカン!しかしそれも不発。次の一発で念願の熊は射てましたがその恐ろしいこと、思い出しても冷汗が出る話。

 後日、代十さんから何回も聞いたことか、死の一歩手前のお話でした。
結論として「大丈夫だんべー」の話は止した方が良いとの事。体験談を元にした貴重な教訓のお話です。

   
捕った熊と、熊竹さんこと土屋竹雄さん(写真右中央)

 

開拓10周年記念について

 昭和31年春。
組合長が原田良太郎さんの時、集会で話し合いにて、開拓10周年記念で演芸をすることが決まり、三沢入口近くの田んぼを借用。

 小屋作りから始まり、練習を積み重ねて上演。未だテレビなどない時でもあり、沢山の人に見物に来て頂き、盛況のうちに春の宵を楽しみ、無事記念事業を終える。
今、思うに、若く元気で在ればこそできたと思う。

 

元三沢集会所建設について

 昭和30年まで集会所がないため、長い間、加工場を利用して度々の集会を開いていたが、いよいよ集会所の建設の話も決まり、委員長に原田時三郎さん外土屋竹雄氏、住谷松次郎氏、住谷代十氏の四名の委員を募り、旧烏渕村の財源から60%をだしてもらい、それを基に、不足分はおてんまで皆さんに御苦労を頂き、念願の集会所が完成して現在に至る。
思い返すと、建設予定の土地が硬く、何日も何日も土取りに頑張ったことが思い出されます。

 

災害について

昭和24年11月に唐堀の武藤芳松宅全焼
昭和24年11月に下仁作宅全焼
昭和42年4月に唐堀の相模始次宅全焼
不幸な出来事が有りました。其の他ボヤ二軒。

 

春突風と台風について

 昭和34年3月のことです。渡辺松五郎さんが二階立ての住宅を建て始めました。
上棟も済み、外壁も七分通り塗りつつある時、突風が吹き見るも無惨に打ち砕かれ、凄まじい風の力に恐れる。ある人は竜巻とも申していましたが、苦心も努力も自然の力は、一瞬の内に奪いとって行く気の毒な出来事でした。
其の年の8月に伊勢湾台風が上陸。群馬も通過地点に入り、住谷代十さんの新築の家も無惨に砕かれ、大変な事故でした。 昭和26年にも大きな台風が上陸。赤城山の開拓地が全滅と思われる被害で、当地も大変な被害に遭った。

 

相手に取って不足なし

 開拓開放も進むと共に、地主の山々もだんだん整理が進み、一見、ハゲ山になりつつあるが、丸山政四郎さん上の○×所有の山は全く切らず、12、3年は過ぎても其のままの姿。税金は当組合が負担していたが、組合も資金繰りに窮していました。

 昭和35年春、その材木を売って代償に当てようと、組合長が原田時三郎さんの時、県の開拓課の課長の申すに、 「相手が○×なら不足無しだ。やれやれ!」とか申された事もあるとか…並々ならぬ決断と思う。
全員思い思いの道具を持ち、一斉に切り始めた。
大木がバタバタ倒れ、何か凄さを感じる。大体切り終わった頃、○×の番頭の飯島さんと社長の松五郎氏も来ました。飯島さんは倉渕の人で、松五郎社長は最終的に飯島さんに一任された様子。議員も在る事だし事件としてでかでか新聞に報じられて世間に広まっては大変!と心持ちを打ち明けられたり…。結論が出る迄苦労された様子でした。
材木は○×で全部引き取り、残木は全部切る約束。種々方法での打算の最終決定にて話もきりました。当時、材木は非常に高価で尺九になれば1万とか…。組合に入った金30万。

 

水源確保から約束実行について

 昭和35年初秋の頃、開拓代表者が年度○×高崎工事事務所にお伺いし、丸山元吉さん、山田と二人の面会を申し込みましたが叶わず、帰路、私たちに心配をして頂いている元村長原田元吉氏宅にお伺い、今迄の経過をお話致しました。

「俺の意気のかかった開拓者に水もくれん心算かな?」速、電話にて○×の当時の社長、松五郎氏を呼び出して、「水源確保のために行った開拓者には水も呉れん心算か?」、との問いに、「つい多忙のため、会うことはできませんでしたが水をくれぬ気持は毛頭無く、どうぞ御利用願います」と御返事。
快諾を得る事ができ、心よりカネトさんにお礼を申し述べ、帰路に着く。

 後日、水源地と保留するタンク、設備場所を確認に○×代表として飯島氏が来村。組合長原田時次郎さんと共に、『良かろう約束』が出来ました。
その折り、○×の願いとして開拓地の上に沢山の原木があり、切り出す場合のソリ道を一本開けてくれる様願われ、前向きに努力する約束で話が決まる。
明けて昭和36年に水源が確保できたので、村長追川時代の助役塚越真一氏と東京農林省に補助金を願いに行く。

昭和37年に組合長丸山元吉さんが職に付かれた折り、前組合長からの願いが叶い丸山元吉さんが補助金を受取り、いよいよ水道の設備から水道管伏設が実行される。
2、3ヶ月後すべての工事が終了。○×の飯島氏との約束実行に移る。村内の行政書士堀込春冶氏にお願いして開拓者水道係に一通、○×の松五郎氏に一通、覚え書きを作成した。全て、手落ち無き事確認して手渡してある。その折り、でき上った水源を○×の飯島氏と共に来村。前組合長原田時三郎さん、水道実行組合長原田元吉さんと、時の会計武藤為雄さんも一緒に両者思い思いの件が実行され、快諾済み。

 その後、数年が経過して水道水が不足になり、水道30増設の話が浮上。当方の申し入れを○×の松五郎氏に快く受け入れて頂く。

 増設部ができ上った折り、○×会長と飯島氏の二人で現地を見に来て頂き、当方は組合長丸山元吉さんと武藤為雄さんが立会い、その時会長さんの言葉が、「半永久的な設備だ。タンクも隣だし、そり道も約束通り実行して頂けたり…」全て、文歓の通りで良く全て成立、現在に至る。

水道敷設経費と補助金について

 経費と補助金には、あまり細部について書いてなく、書き添えますと、

相手方の要望通りに○×と元三沢地区水道設備の交換条件として、丸山政四郎さん所有の地所より分筆登記して、倉渕内に住まわれてる行政書士の堀込春冶さんにお願いして、地図に赤線入りで分筆。開拓水道係に一通、○×に一通、全ての経費計1萬円也。当時(日当500円の時です。)

次は、組合長原田時三郎さん、そして役場の助役塚越眞一さんに補助金の件で農林省にお願いに上り、無事通過して受取った金額240万円也。
 元三沢の全世帯数が約30軒で一軒当り8万円になります。昔から住んでいた方々も同じ扱いとしましたが、まだ工事費用に足らず、一軒当り1万円の不足になりました。その捻出に一人20日間の穴掘り作業に出ることに決まりました。

 当時は重機なぞ無く、体力とシャベルで工事が終了迄、延々6キロに余る工事でしたが、長い間、水のない不自由な生活に明け暮れしていましたが、念願の水道水が出るよう様になり、水を一日も欠かすことの出来ぬ婦人の方々の歓びは一方ならぬものと思いました。一斉に電気洗濯機が入ったのも其の頃です。

 

ちゃんとちゃんと申しました

 昭和34、5年の頃です。衆議院戦の最中、立候補された福田赳夫氏が当元三沢地区に来られるという連絡が有り、稚蚕飼育所にて待つ事少時。流石大物、車15、6台に分乗して来られました。

 車から福田赳夫氏が降りられ挨拶された時、原田トリさんが一緒に在りて、「なあんだ赳ちゃんでないか。お前偉くなったなー」。赳ちゃん申すに、「なんだトリちゃんでないか。達者でよかったなー。」と長々と挨拶する り、ちゃんと票を握られた事と思います。

 

電化製品について

昭和35年頃より、テレビ、冷蔵庫が入り始め、水道が入ってから洗濯機も入り、4、5年過ぎる頃には全世帯に入る。

 

機械化について

昭和37年頃、県より補助金で全自動脱穀機が1台入る。
25軒で1台を使うに収穫の時が同じために誠に不便を感じ、4、5年過ぎる頃、全世帯で個々に買われる。

 

自動車について

昭和39年頃迄、元三沢地区には乗り物は無く、初めて武藤為雄さんがオートバイを買い入れた頃です。次々オートバイが増え始めました。しばらくすると今度は自動車に代わりはじめ、若い者の時代になりつつあり。4、5年の内に自動車の無い家もなくなり自動車時代にかわりつつあり。

 特に、女性が免許を取ることが多くなり、昔々歩いた道も今では楽になりました。

 

稚蚕飼育所について

 倉渕村農協組合が昭和40年頃、元三沢地区に稚蚕飼育所の設立が計画され、何回かの会合の末に話も決まって実行に移りました。附帯地に三町余り桑園を作り、其の他個人用地も借用し桑園約五町歩作りに着手。43年頃より事業が始まり、一時期は大変盛んで三々五々、桑摘む人も見受けられ、飼育所内で働く人々で賑やかでした。

昭和48年頃より、化繊織物も盛んの上に中国から入る絹織物も加わってだんだんと養蚕をする人も少なくなり、わずか10年足らずで時代の流れには勝てず、昭和50年末にて閉鎖。その後苗作りに飼育所が変わり、現在は盛んになりつつあります。

 

開拓二十周年記念について

昭和41年11月、組合長が丸山元吉さんの時でした。群馬会館で開拓20周年祭が挙行されることになり、出来るだけ多く出席することに決まりました。群馬会館までは乗り降りも大変で、原田時三郎さんが権田の追川商店の娘さんにお願いして、幌をかけた自動車の荷台に全員乗車し一路県庁へ。其の頃は倉渕から前橋までの道中は砂利道でした。そのときは連日晴天が続いていて物凄いホコリ、目的地に着いて降りた時は全員真っ黒で笑いあったことが思いだされます。


 
行事が一切終り、一日楽しく過ごして個人個人に記念品が渡されて帰路につく。開拓会館もその折り記念行事として作ることになり、後日、大変利用いたしました。

 

補助金道路について

 昭和四十四年、組合長が丸山元吉さんの時、開拓者のための生活道路(開拓道路)の名称で国より補助金が出ることとなり、相模清さんの前の道から少し上の所に、高さ1メートル30センチ位の丘があ、約下100メートルの間、勾配を良くならして敷砂利で仕上げる。
道路を造るときにはソリを使うので、皆さんソリを持って全員が作業に参加する。工事は2、3日で終了。日当350円也。安くも自分たちの道路。

 

鱒池について

 昭和46年頃、前村長の原田元吉氏より鱒池を作って事業を始めたい旨の申し入れがあり、反対する人もなく決まった。
場所は併用林道開拓地の終る、川に近い中島という所に決まった。
建設が始まり、47年に釣堀と養鱒事業が営業開始されて今日に至っています。

 

新橋タイヤについて

 社長は群馬県大八木の出身の田島藤太郎氏。種々様々気心が解る頃、当初から東京工場に働きに行ったりし折り、日本全土が高度成長期に入り昭和四十七年、相模清さんと話し合い、再生タイヤ工場の建設に着手。
昭和49年、再生タイヤ事業が始まり一時期は調子良く事業も盛んになり、一時期、東京工場、所沢工場、元三沢工場、合わせて27名もの元三沢の人の働き場所となっていました(清さん調べ)。

    


その後、日本でタイヤを再生するより中古のタイヤをそのまま東南アジア方面に輸出する様になり、また新品タイヤがオートメーション化され、安く出回るようになった。

 工場では再生タイヤの生産を止め、その後、横浜タイヤの置場として使用していましたが長続きせず、昭和58年に工場閉鎖。其の後、工場は撤収。最後の一棟は清さんの所有物件にて終了。

 

開拓の終りについて

 昭和21年発足以来、予定の時過ぎること2年。昭和48年4月をもって、日本の開拓は一般農政に移行いたしました。
 開拓終了の記念式は昭和48年10月30日午前10時より前述の通り前橋で行われ、開拓記念誌の発行をはじめとした祝典を行う。
時の人、群馬県知事の神田今六氏からもお祝の挨拶があり、様々なるお祝の記念式典が続く。
余興に入り、畑山みどりや春日八郎が出演され、後日の想い出に残った。午後3時式典終了。

 

元三沢の記念碑

 今迄に行った大きな記念事業を記念碑に刻み、昭和49年6月建立。全員参加して集会所でお祝いを行う。

 

附帯地の桑園について

 農協が長い間利用していた桑園も不用になり、共有地組合長が武藤為雄さんの時、集会を開き杉を植えることに決まり、昭和52年4月植付開始。
杉400本面積一町八セ、此の植付で桑園の約半分が終る。残り半分は昭和56年4月、委員長が原田時三郎さんの時、残桑園を整理して杉400本、面積一町四反七セの植付開始。現在次第に生育中。

 

 

 

 書き残すにあたり、始めに思いついたことは、当初から現在に至る迄、健在で過ごしている人に思い出を書いて頂き、それを綴る心算で、三人で手分け致し、七、八名の方々にお願いして、数ヶ月が過ぎし頃、集めに廻りましたが残念ながら願い叶わず、山田、始めに云い始めた事でもあり、協力して頂ける方もあり、解らん事は尋ね、忘れし事は当時、苦労された方々にお伺いして、迷惑とも思いますが書く事に致します。又、元三沢集会所の押入れに、代々の役員が書き残した書類が置いてありましたが、昭和59年頃、焼却された様子。書き始める前に相模清さんと確認致しましたが無く、全く残念に思います。

 

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